租税根拠論として、持たざる国の資本主義採用による租税国家説が通説的地位を占めることは明らかであろう。
しかし、国家の立場からすれば正当であるとも思えるこの考え方も、ひとたび国家対国民という近代立憲主義の考え方からすると言い訳がましく思えるのは私だけだろうか?
近代立憲主義の根幹には、財産の自由が厳然として存在するのであって、人権の重要な一つである財産権が国家により侵害されることを正当化するためには、やはり理由が必要である。
それは、代表なければ課税なしと述べたパトリックヘンリーの言葉に示されるように、課税する側と課税される側にニアリーイコールの関係が成立していることに他ならない。民主主義は、治者と被治者の自同性と言い換えられることがあるが、この自同性がゆえに、課税は正当化されるのだ。
わかりやすく言えば、自分が払うと決めたから、自分の財産権が国家に無償で渡される。それゆえに租税は侵害ではないと言えるのである。
但し、無論ことは単純ではない。治者と被治者の自同性は、疫学的とも言えるフィクションであり、選挙権を持たない納税者の存在や民主主義の過程が比例代表や政党政治の中で歪められていないかは常に問い続けられなければならない。多数決原理が不可欠である以上、少数派になる局面も多々存在しうる。少し考えれば想像に難くないが、例えば税務調査を受けて、課税庁から構成される場面は、常に自らが多勢に無勢で租税を侵害そのものであると認識する瞬間なのだ。
自分が納得して払う租税は自らが治者となったに等しいとしても(それでも多く納めすぎる危険はあるが)、日常的に発生する租税問題は、数限りなく、いわゆる侵害行政を展開し続けている—-そんな現実を無視することは決してできないであろう。
このことが意味するのは、民主主義が課税の根拠でありながらも、常に不完全で、ややもすれば少数者を迫害する危険を様々な局面で常時孕んでいるということである。
課税の根拠論が示すのは、正当化根拠は民主主義にあると同時に、正当化に安住の地はなく、個々具体的なケースで少数者を常に権力と戦う民主主義の擁護者として大切にし続けなければならないのだという正当化実質権を認めることなのである。
これが、私の主張する手続法=動態的民主主義の萌芽の説明である。